第12回前編:法学研究を志す人のために~法学を学んだあとはどうするの?

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法学を学んだあと、どうするの?

いよいよ最終回がやってきた。法学を学ぶ皆さんに最後に伝えたいことは、「法学を学んだあとはどうするの?」という問いかけに対する、私なりの答えである。ここまでは「いかに法学を学ぶか」について皆さんと一緒に考えてきた。しかし、それと同じくらい、いやそれ以上に、今まで学んだこと、身につけたことをどう使っていくのかを考えるのは大切なことだろう。というわけでこの第12回(最終回)は、法学を一通り学んだあとの人生設計(キャリア・プランニング)について考えていくことにしよう。

法学研究者というキャリア

既にこの連載では、研究者の果たしている役割や、研究者養成課程である博士課程に入ったときに気がついた違和感については、他のブログやTwitterなどで書いたことも踏まえつつ、少しだけ紹介してきた。
第1回後編:思考の流れを押さえる~実務家・研究者がやっていること - タイムリープカフェ
「異常事態になってから考えたのでは間に合わないことを考える」のが、研究者の仕事


第6回前編:学部生には見えない世界~法科大学院、博士課程でみえてきたこと - タイムリープカフェ
法科大学院から博士課程に進んでようやくみえてきた「違い」


また、この連載は、基本的には著者である私が体験したことを振り返りつつ、読者の皆さんに伝えていくというスタイルをとっている。だから、キャリア・プランニングについて語るなら、私自身のキャリア・プランニングについても振り返っておく必要があると考えた。しかし、今まで語ってきたことだけでは、法学研究者がどのような役目を負っているのかはわかっても、どうやって法学研究者になるのかについては、よくわからないだろう。実際、12年前の私にとっても、法学の研究者になるなどということは縁遠いことであり、自分自身かなり特殊なキャリア・プランをとったことは自覚している。
そうなると、「法学研究を志す人のために」という一節を、どうしても書かなければならないことになる。
本来、そのような文章は、実際に法学の研究者養成に関与している者でなければ、書いてはいけないような気もしている。しかし、この連載を引き受けることにした主たる動機のひとつは、「法科大学院経由での法学研究者養成」の第一世代である当事者が語ることもまた、後輩たちの進路選択のために必要だと考えたからでもある。
また、以前、出身大学院の先生に、「どうやったら法学研究者の卵を増やすことができると思いますか」と質問されたことがある。そのときの私は、「先輩である先生方ご自身が、楽しそうに研究をしている姿を見せることが一番だと思います」という、生意気な、しかし率直な返答をした。これは、当時は博士課程の院生だった自分にとっても、ゼミや研究会で垣間見る先生方のキラキラした姿に憧れているところがあったからである。
そして、その回答を聞いていた他の先生から、母校の法科大学院生向けに、研究案内のための講演会で話して欲しい、と依頼されることにもつながった*1そろそろ、「私自身が楽しそうに研究していることを見せる」時期がきているのではないか。なにより、「法学研究に憧れているのに、とっかかりがつかめないままに時間が過ぎてしまい諦める」なんていう悪夢を、この連載をお読みの皆さんに体験してほしくない――そんなことを考えつつ、第12回【前編】では、私自身のキャリアの作り方を振り返り、法学の研究者養成制度ではどのようなことが行われているのか、どんなことを考えてテーマを選んだのかを、かいつまんでご紹介し、これから法学研究を志す人向けのエールを書くことにしたいと思う。

ブロガーぱうぜが法学研究者になるまで

ここからは、自分語りが多くなってしまい本当に恥ずかしいのだけれども、当時の公開「日記」も参照しながら説明していくことにしよう。なお、あくまで2005年から2013年にかけて法学部~法科大学院~博士課程を経た時点での話であり、当時の状況であることにご留意いただきたい。いま現在の制度がどうであるか、今から志す人がどうすべきかを調べるためのヒントは後述する。

ロールモデル不在」の進路選択

誰にも見通せないイバラの道を進むにあたって - Kaffeepauseの日記
(旧)司法試験択一落ちという結果を突きつけられた、法学部4年生の進路選択における悩みの吐露。


2005年、つまり法学部4年生当時の自分は、いよいよ「行政法の研究者の道」を選ぶと心に決めて、上記のとおり、この先は「誰にも見通せないイバラの道」だ、と認識している。これはどういうことかというと、当時、まだ法科大学院制度は始まったばかりであり、法学研究者養成については、「方針は決まっているけれどもその道を歩いた人がまだいない」という状況であった。法科大学院が開設されたのは2004年のことだから、まだ、当時は「法科大学院を修了したうえで博士課程に進学する」という進路選択をした先輩は、時期的な関係でそもそも誰もいなかった*2
「研究者になりたいのに修士課程を経由しない(できない)」という恐怖と、「ただでさえ忙しいという法科大学院生のカリキュラムをこなしながら、研究者養成のための基礎トレーニングにまで手を出して大丈夫なのか」という恐怖。この時期に法学研究者を志すというのは、とても恐ろしい進路選択であった。そこで、こんな悲壮感たっぷりの記事を公開設定で書くというとても「痛々しい」ことをしてまで、ネットの向こう側にいる先輩たちに助けを求めている、そういう趣旨の記事である*3
ともあれ、第6回【後編】でも書いたように、「行政法を仕事とするのなら研究者になるしかない」と思い込んでいた私は、法科大学院に進学したうえで、研究大学院に進学し、博士論文を執筆するという進路をとることになった。

修士課程経由の先輩たちから指摘された「研究者養成基礎課程」の不在

ネットの向こう側にいた、修士課程を経由して博士課程に進んだ先輩たちから指摘されていたのは、(修士課程ではなく)法科大学院を経由することで、研究者養成に欠くことができない外国文献読解トレーニングの機会、それに加えて「修士論文を書く」ということに付随して行われる、先行文献の読み解き方、批評的精神の持ち方、自分の議論を組み立て執筆する能力などを鍛える機会が失われる可能性があるという点であった。修士課程であれば、その課程に在籍する院生の目的はとにもかくにも「修士論文を書くこと」であり、それは研究者としての下積みをするということに他ならない。法科大学院に進学したうえで博士課程にさらに進学するためには、「法科大学院の課程を修了するだけの能力があり、それに加えて研究ができる見込みがあること」を示すものを提示しなければならない、ということである。
2016年の今であれば、このような法科大学院における「研究者養成基礎課程の不在」に伴うデメリットが、具体的にどのような形で現れるのかを、後述する書籍も参照しながら教えることができる。しかし、当時は危機感ばかりで、具体的な内容がわかっていなかった。そこで、先輩たちが言うデメリットが顕在化しないように、なるべく先回りをして不足を補うようにすることにした。

「外国法との比較」を用いた「研究論文」の執筆を目標にする

私が進学した東京大学法科大学院では、幸い、「研究論文」という単位が設定されていた。そして、博士課程進学のためには、「修士論文相当」の論文を願書と共に提出しなければならないこともわかった。それには、法科大学院進学前であるにもかかわらず博士課程用の進路説明会に出席して、法科大学院経由者についてはどういう扱いになるのかを調べておいたことが功を奏した。まだ誰も歩んでいない道なのだから、自分が当事者意識を持って調べなければ、道は開けない。かなりの人数の先輩や先生、そして事務の皆さんに迷惑をかけつつ、求められている論文のレベルが「外国法との比較」が用いられていることであると読み取った私は、法科大学院の入試直前(2005年10月)になってようやく初めての外国法文献演習を履修することになった。そこでようやく、外国法の文献を読むことがどれだけ大変なことなのかがおぼろげながら見えてきた。またこの演習は、博士課程院生も受講しているゼミであったため、ようやく、「研究者になる途中の人」と率直に意見交換をする場を得ることができた。
法科大学院に進学してからも、どうにか時間をやりくりして、修士課程の院生*4にはどうしてもかなわないものの、どうにか外国法文献購読演習を受講し続けた。その中には、法科大学院生の履修が想定されていなかったゼミも含まれる(そのため、卒業単位には加算されない)。法科大学院には履修上限等もあるため、いま思うといろいろな意味でギリギリであったものの、基礎法系科目・応用科目については「研究論文」のテーマと関連するものを受講したり*5、講義後に担当教員に「研究者志望であるが、どうすればいいだろうか」という質問を個別に行うことで、基礎的な文献を紹介してもらうようにした。
そして、法科大学院最終学年(既修コース2年目)の一年間は、法科大学院での必修科目を落とさないようにしながら、自分の持ち味をみせられるような「研究論文」を、まだ用いたことがない「外国法との比較」を用いて書こうと努力した。このとき、「法科大学院生だからこそ書けることはあるだろうか」という、やや邪道な問題設定をして、当時法整備が始まったばかりの団体訴訟をテーマに論文を執筆した。それは、民事法と行政法、そして消費者法と環境法の4つの分野にまたがるものであり、またドイツでも議論が進行中であることを、指導教員の先生やドイツから講演に来ていた先生、また履修したゼミの先生からのご教示もあって、気がつくことができたからである。正直、今読み返すと「ただ議論を借りてきただけ」のように思える稚拙なものではあるが、どうにか、「外国法を参照して国内法の課題について自分なりの方向性をつける」という、最低限の要請を満たす論文を執筆することができた。
公開できるほどに熟したものではないとはいえ、この論文を書き上げたことは、自分のなかで大きな自信と歓びとなった。暗中模索の資料収集と、なかなか進まない分析。しかし、途中で、全体をまとめ上げるような観点をひらめいたとき、自分の頭の中で、世界の見え方が変わったと感じた。「この法制度とこの枠組みは、このように関連付けて議論できるのではないか」・・・・・・このリンクが見つかった瞬間の興奮は、やみつきになる。このときようやく、「もしかしたら研究者になれるかもしれない」と思えるようになってきた。なんとか書き上げたこの論文を提出して入学試験を受験し、博士課程に進学した*6

博士課程進学後には

不足を補おうと努力はしたものの、間に合わなかった。そんな思いを抱えながら博士課程に進学した私は、最初の二年間を、「ドイツ(とフランス)の行政法文献が読めるようになること」と、「ドイツ法との比較において、新しい課題を見つけること」に費やした。具体的には、ドイツとフランスの行政法の歴史を学びつつ、研究者としてのキャリアを踏み出すための「狭義の専門」となる、博士論文を執筆するテーマを探すことであった。
そして、それと並行して、研究者としての基礎トレーニングを積むために、研究会に参加し、報告をした。本来、修士課程から進学した場合には、博士課程1年目は修士論文を公表することに充てることができる。これにより、公表業績を作るということに伴う苦労を経験して、論文執筆のための素養を高めることができる。しかし、法科大学院から進学した場合には、修士課程で終えることができなかった、「研究者となるための裾野を広げること」をまず行う必要があり、それと同時進行で、博士論文執筆のためのトレーニングを積むことが求められた。
博士課程1年目・2年目(2008年度~2009年度)で、私は判例評釈を2件、外国語文献の書評を1件担当し、後者については公表することができた*7。この外国語文献は、博士論文のテーマと深く関連し、後からみれば、この書評は博士論文の重要な一部となった。

博士論文を書くまでの七転八倒

修士論文を書いていないこと。それは、公表するものとしても初めての論文*8である「処女作」として、博士論文を執筆するということである。そうすると、研究者としての資質を示すことと、「博士論文」たることの要件である新規性とを、同時に満たすような論文を書かなければならないということ・・・このことが、強くのしかかり、なかなか「博士論文のテーマと方法」を絞り込めずにいた。
しかし自分の中では、法学部3年生のとき、行政法第2部(行政救済法)を学んだときに感じた疑問が、心のなかで引っかかり続けていた。それは、行政事件訴訟法の申請型義務付け訴訟がイレギュラーに終わるとき(行政事件訴訟法37条の3第6項)は、具体的にどんな判断がなされるのだろうか、という点であった*9
これをどうにか、「生涯の課題」として、博士論文につなげることはできないか。このひらめき、疑問を問いとして育て、答えるための方策を見つけようと考え始めたのは、博士課程2年目であった。上記の書評で少しは書くことはできたものの、そこから具体的な論文の構想として形になるまでには、ずいぶん長くかかってしまった。そうこうしているうちに、研究科の図書館と自分の所属する研究室の改築に伴う閉鎖・移転に巻き込まれ、体調も崩し、ようやく博士論文の大枠を作ったのは2010年の冬のこと。中間報告にこぎつけたのは、2011年(博士課程4年目)の夏であった。その時点では、構想もふわふわしたものであり、中間報告会ではかなり厳しいご指摘をいただくことになってしまった。そんなこんなで、研究科に提出する論文ができたのは2012年9月(博士課程5年目)であり、厳しい論文審査を経て、どうにか、課程博士としての年限ぎりぎりである2013年3月に、学位を取得することができた。もっとも、博士論文は「はじまり」に過ぎず、その公表(私の場合は、東京大学法学政治学研究科の大学紀要である「国家学会雑誌」での連載)時にも、大変な思いをしたのだが、かなり思い出話が長くなってしまったので、ここまでにしよう*10

研究者としての歓び

以上、法学研究者を志すことがどのような道であるかがなんとなく理解していただけたのではないかと思う。それにしても、ここまで書いてみると、単に「研究者になるのって、なんだか大変だなあ」という感想になってしまいそうである。それでは「研究者としての楽しさ」が伝わらないので、苦労した中でつかんだ歓びについても少し触れよう。

厳しい環境に身を置くことでのレベルアップ

上記の通り、学部から博士論文執筆に至るまで、自分が苦労したことの一つは、外国法文献を読みこなすことがなかなかできなかったという点である(これは今でも苦労している)。極端に言えば、最初は2、3行の文を正確に読もうとするだけでも2時間かかり、たった5,6頁分の翻訳課題に何日もかかるような有様であった。その上でゼミに出てみれば、間違いだらけ・・・。そんな状況からスタートして、自分の研究課題を見つけ、その分野・項目に関連する文献や判例を片っ端から読んでみる。それを経てようやく、自分の専門とする分野についてならば、どうにか実用に耐えるスピードと正確性で読めるようになっていくのである。ここでのポイントは、「論文で取り上げるために必要に迫られて」読み始めると、とたんにレベルアップが早くなる、ということである。「必要は発明の母」でもあるが、だんだんとその分野についての知識がついてくることもその一因である(今だってドイツ語の文学作品は読めないし、異なる法分野の文献もなかなか厳しい)。挑むことで、出来ることが少しずつ増えていき、だんだんと自信につながっていく。

心の支えとなったことば

研究論文として完成させるためには、「取り組む意義のある課題」を自ら見つけ、「それに対する答え」を、「学問的な素養を踏まえたやり方で」導き出さなければならない。そうすると、先行文献を読み進めるうちに、「自分の考えるようなことは全て先行者が考えているんだ」というあきらめの境地と、「いやいやこれまでの議論は全ておかしいんだ」という開き直りとの間を行き来することになる。実は、この両極端な視点は両方必要であり、バランスの取れた、論証がしっかり組み上がった、しかし新規性のある論文を書くためには、この二つの間でどうにか折り合いを付けて文章を紡がなければならない。
そのとき先輩や指導教員に教えられて心の支えとなったことばが二つある。
一つは、「どんなに優れた論文でも、10年経てば何かしらツッコミどころが出てくるはず」ということば。もう一つは、「一人の人間が考えることは、きっとどこか根っこのほうでつながっている」ということばである。一つ目は、そのような目で先行研究をもう一度読み返せば、何かしら付け加えることが見つかるかもしれない、そこから自分の議論を組み立てることはできないかをもっとよく考えてみようという勇気を与えてくれた。
二つ目のことばは、自分の関心のあるテーマがちりぢりになってまとめきれないときに、何かしらの糸口を見つけるための指針となった。いま学んでいること、調べていることは、この論文ではつながらないかもしれない。しかし、10年後、20年後の自分なら、糸をつないで別の形に組み直せるかもしれない・・・そう信じてやっていくことが、張り裂けそうな心を支えることになった。

これから研究者を志す人のために

既に、「課程博士」や「中間報告」など、博士課程進学を検討したことがない人にとっては聞き慣れない言葉が出てきている。また、ここまでの話はあくまで「2005年に研究者になろうと志した人」の思い出話であり、今ではかなり状況が変わっている。これから研究者になろうかな、と思っている人に、どんなアドバイスをするべきかを検討した結果、「結局は自分で調べて、悩んでもらうしかない」という結論に落ち着いた。そこで、ここでは調べるためのとっかかりとなる情報を紹介し、これからの一歩としてどうすべきかについてアドバイスをするにとどめたい。前者は、この制度過渡期の法学研究者養成についての問題については、既に提言としてまとめられていたり、それに対応するような形での法学研究者養成向けの書籍があるので、それを紹介するということ。後者は、どうしても公開の場では書けないこともあり、また区々変化する状況すべてに対応できるわけではないので、「事情がわかる人にいち早く相談すること」を勧めることである。

危機として認識されている「法学研究者養成」

私が博士論文執筆で引きこもっている間、上記のような法学研究者養成プロセスは危機にあると受け止められ、再構築のための対策を取るべきであるという提言がまとめられている。平成23年(2011年)9月22日付の日本学術会議法学委員会法学系大学院分科会の「法学研究者養成の危機打開の方策-法学教育・研究の再構築を目指して-」と題する提言は、各法科大学院への法学研究者養成に関するアンケートを元に議論されており、5年経った今においても、一読の価値がある。制度改革により、法科大学院だけで運営している(修士課程等の研究者養成課程がある場合、それは別建てとなる)法科大学院もあれば、研究者養成と組み合わさった法科大学院もある、というように、全体の様子がわかるようになっている。

日本学術会議法学委員会法学系大学院分科会の「法学研究者養成の危機打開の方策-法学教育・研究の再構築を目指して-」(pdf形式)

これから読み始める人は、最後の「自由記述欄」(35頁以降)まで目を通していただきたい。この記事では語ることができなかった、研究者としての就職問題や、大学院によって人材育成方針が異なることなど、複雑な背景が透けて見えると思う。
各大学も手をこまねいていたわけではなく、上記提言内においても、京都大学早稲田大学北海道大学の取り組みが紹介されているし、この提言以降に始まったものも含めて、各種の取り組みがなされていると聞いている。

法科大学院設置後に出版された「法学研究者養成」向けの本

法科大学院経由での法学研究者養成の問題として、「そもそも研究とは何か」を学び取る機会が少なく、どうにもわからないという問題が発生している。また、修士課程の院生等と物理的にも精神的にも分断されていることがままあり、執筆途中で悩むときの相談相手もいない、ということがある(これは、修士課程経由でも、同期や先輩・後輩が少ないという意味では同じような問題が発生しやすい)。また、相談相手がいる場合でも、一通りの見取り図を得ていることはとても重要である。そのような観点から、2冊、法科大学院制度発足以降に書かれた書籍を紹介しよう。
近江幸治『学術論文の作法』(成文堂、2011年)は、上記提言内でも紹介されている早稲田大学における取り組み(修士課程・博士課程の5年間を通しで設計し、段階的に博士論文執筆を支援するコースワーク制度)を中心にしつつ、法学における研究論文・学位論文の書き方を簡潔に紹介した本である。極めてミニマムな本であるが、工夫が凝らされていて、何度も参照すべき記述が多い。
もう一冊は、九州大学大学院法学研究院『中国人留学生のための法学・政治学論文の書き方』(中国書店、2015年)である。タイトルからして奇異に思われるかもしれないが、実は、現状の法学研究科修士課程はアジアからの留学生が多い。執筆者はいずれも中国法に関連の深い方々であり、本書は前半は日本語、後半は中国語(簡体字)で同じ内容が掲載されている。留学生を指導するためのメソッドを凝縮して書かれたと思われる記述は、実は法学部を卒業したばかりの人にとっても、法科大学院経由で研究を志す人にとっても、そして実務から研究の世界に飛び込む人にとってもありがたい内容になっている。なぜなら、「法学における論文とは何か」ということがよくわからないのは、留学生であるかないかにかかわらず、皆同じだからである。本書はあまり発行部数が多くないかもしれないので、まだ市場にあるうちにぜひ手にとってみていただきたい。
両者に共通するのは、お題目ばかり掲げるのではなく、実体験に基づいたコメントが多く載っているという点である。たとえば、法学研究論文執筆における「仮説」の論証やその着想に至るプロセスは、論文を書いたことがない学部生にとっては、はっきりいって謎だらけである。近江幸治・前掲書20-23頁は、著者自らの博士論文テーマである「譲渡担保」に即して、どのように論文をくみ上げていったのか、何を「仮説」として提示することになったのか、論文集にまとめる際にどのような全体設計を行ったのかを、民法担保物権法を一通り学んだ人間であれば理解できるような、平易な書き方で説明されている。
九州大学大学院法学研究院・前掲書第1章(8-19頁)は、「大学院にあるべき生活習慣と勉強法 実践編」と題して、大学院生が身につけるべき基本的な研究手法(研究ノートの取り方、読書に対する考え方等)だけでなく、指導教員との関係の作り方についても踏み込んで紹介している。また、対象が中国人留学生であることから、「実践コラムⅡ (超・入門編)日本法の調べ方」(74-95頁)と「実践コラムⅢ(あるいは日本人のための?)中国法の調べ方」(96-115頁)は、法学・政治学を研究するためだけでなく、日本社会・中国社会をつかむために必要な事柄について、丁寧かつ実践的な解説になっている。

いち早く「研究者志望を名乗り出る」、相談することが大事

実体験に基づいたコメントは、そうそう得られるものではない。私自身も、今回書き切れない、公開の場所で書くことがためらわれた事柄が多かった。また、事情は所属している大学や、専攻しようとしている法分野によってもかなり異なる。そこで、もし、今法学研究者を志す可能性がある人がいるのであれば、まずはゼミ・演習の先生に相談することを強く勧める*11。あなたの実力と思考方法を知っている人に相談することこそが、まず第一歩になるからである。
なお私自身は、Facebook上に「若手法学研究者フォーラム」というグループを作って、学部卒業以上の学歴をもち、法学研究に関わりたいという人たちのコミュニティをつくることで、互いに相談できるようなプラットフォームを作っている。これについては以下の記事で書いたので、もし参加資格がある人は、ご相談いただきたい。
「若手法学研究者フォーラム」はじめています - カフェパウゼをあなたと
この記事にしめした理念のもと、3年継続しています

次回予告

次回は、いよいよ最終回。今までの連載をおさらいしつつ、「法学を学ぶ人」に向けて、未来の自分の作り方を一緒に考えていくことにしたい。岡野純さんにお願いしたイラストの意味も、次回。

第12回【前編】まとめ

  1. 走ってみるまでは誰だって「誰も見通せないイバラの道」
  2. 新規性がある論文を書くために、自分を信じよう
  3. 自分の進路を見つけるために、自分のための情報を集めよう

*1:なお、この「研究案内講演会」のときに作成した資料については、公開可能な情報については今回の記事のベースにしたが、それ以外の部分が気になる方向けにはメールでお渡ししている。もし、ご自身の進路選択との関係で必要だと思う方は、後掲のメールフォーム経由かTwitter経由で連絡をとっていただきたい。

*2:その点で、最も勇気があったのは法科大学院第一期生から研究者養成に進んだ先輩方であり、彼らにはその後多数のアドバイスをいただいたことを付記しておきたい。

*3:なぜこんなことを書いているのかというと、今、法学研究者を志す人(大学生だけでなく、社会人も含む)の周りに、ロールモデルになる先輩がまったくいないであろうことが、容易に想像できるからである。「あの先輩のしたように」という道筋は、もう、10年前の段階から存在しなくなっている。「不安に思うかもしれないが、それは、あなただけのイバラの道ではない」ことを、覚えておいてほしい。

*4:実定法以外の修士課程は従前通りとなっていたため、同期や先輩には基礎法や政治を専門とする院生が在籍していた。

*5:行政法のなかでも自分が検討するテーマをドイツ法との比較で行うことを半ば「決め打ち」して、ドイツ法制史と欧州法、そして行政法と関連の強い消費者法、環境法の科目を選択した。なお、そのために切り捨てることになる知的財産法、経済法、社会保障法民事執行法、破産法等は、履修制限が比較的ゆるい学部のうちに受講するように努めていた。そのため、学部4年生であるにも関わらず、かなり多くの講義をとっていたように思う。すべてがうまくいったわけではなく、租税法を履修しそびれてしまったことは今でも悔やまれる。

*6:なお、博士課程進学のための入試は、「修士論文に相当する論文」を中心とした審査に加え、外国語の和訳試験が課された。そこでは法学・政治学の文脈での文章が出題されるので、単に外国語が読めるというだけでなく、法学・政治学の文脈での「翻訳」ができること、つまり外国法文献講読ゼミでの能力があるかどうかを審査しているものと思われる。なお、そこでの出来は大変ひどいものであった。

*7:いま思えば判例評釈を公表しなかったのは怠惰そのものであり、後輩にはお勧めできない。なるべく早い段階で、公表媒体への投稿を経験し、論文執筆についての基礎を積むほうがよい。

*8:判例評釈や書評のような「評」ではなく、論じるべき問いと仮説、そして検討が詰まったものとしての論文、である。

*9:実はこれは、その後、「Kaffeepauseの日記」上でも先輩からお題として振っていただいたものの、答えることができないままになっていた「行訴5つの謎」の一つとも深く関連していた。当時の状況は、宿題キター!(汗) - Kaffeepauseの日記を参照。このうち、4つめの謎である取消訴訟・義務づけ訴訟における裁量審査のあり方はどう変わるのか。義務づけ訴訟における『一定の』処分とはどの程度の特定を要求するものなのか」の後段を、博士論文で答える問いの一つとして設定したことになる。2005年当時は、まったく見当がつかなかった問いについて、まさか自分の生涯の課題として捉えることになるとはまったく思っていなかった。

*10:本文中では詳しく説明できなかったが、もし、私自身の博士論文のテーマとその着想の経緯について関心がある方は、千葉大学における「教員が研究を語る」という企画(昼休みの図書館イベント「あかりんアワー」のひとつ)で作成したスライドがあるので、ご参照いただきたい。イベントの特性上、行政法を学ぶ前の学生にもわかるように、前提の議論から始めている。

1210あかりんアワー「行政訴訟ってなんだろう」登壇しました(ブックガイド付き) | イベント | 横田明美研究室
プレゼンテーションの様子を含めた後日談についてはこちら

*11:専攻したい分野と異なる分野を専門とする先生でもかまわない。また、ゼミの先生がいない場合は、専攻したい分野があればその分野の、はっきりしない場合はどの分野でもいいので、あなたが「研究者として憧れる」先生や、親身に話を聞いてくれそうな先生に相談するようにしよう。

第11回後編:社会を変えるには?法学を基軸に他分野にも橋を架けてみよう

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法経学部・法政経学部の教員になってみて

本ブログの趣旨であり、キャッチコピーでもある「もしも10年前の自分たちにちょくちょく出会うとしたら、どんなことを伝えるか?」という言葉。もちろん、これは比喩であり、実際に日々出会っているのは千葉大学法経学部・法政経学部の学生である。12年前の私、つまり東京大学法学部第一類(私法コース)3年生の私と、千葉大学法経学部・法政経学部の学生には大きな相違点がある。それは、法や政治だけでなく、経済、会計や政策の先生方とも身近であり、それらを単なる教養科目ではなく、自らの学部の専門科目として学んでいること。そして、経済や総合政策を専門としている学科・コースのゼミを受講している場合には、原則として卒業論文を書くことになっているということである。
既に第9回【後編補足】でご紹介したとおり、私は法経学部総合政策学科の担当教員として、2013年に千葉大学法経学部にやってきた。すると、自分自身は卒業論文を書いたことがないにもかかわらず、また、「総合政策」という観点での論文を書いたこともないのに、ゼミ生の卒業論文指導を行うことになったのである。自分が書いたことがある論文の作法、いわゆる「法学研究者」としての論文の書き方を指導しても、それはオーバーワークになってしまうし、カリキュラムの趣旨にあわないと考えた。法学研究者が総合政策学科の卒業論文を指導するとは、どういうことなのか・・・それを自問自答しながらの二年間であった。今回は、横田ゼミ第一期生の卒業論文指導を通じて気がついた、法学と経済学、政策学とのかかわりについてコメントすることで、法学を学ぶ皆さんにも、法学の知見を生かして社会を変えようとするときにどんな壁にぶつかるのかについて考えてもらえるような内容にしたい。
なお、今回はあえて「自分の狭義の専門外」の事柄についても語るため、ややもすると私の勘違いや誤りを(いつもの記事以上に)含むかもしれない。読者の皆さん*1は、「横田はこんなこと言ってるけど本当か?」「ここは違う見解だなあ」と、適宜ツッコミを入れつつご覧いただきたい。できれば、お気づきの点については、Twitterやメールフォーム等(各回の末尾に掲載されている)でお知らせいただければ幸いである。

横田ゼミ一期生の卒論指導

まずは、横田ゼミの第一期生の卒業論文指導の過程を詳しく述べて、新米教員である私と第一期ゼミ生がどんなことにつまづき、悩んだのかを追体験していただきたい。

「総合政策」学科・行政法ゼミでの卒論って?

5人のゼミ生が扱った卒業論文の課題(実際の論題よりもわかりやすいよう適宜変更したもの)は次の通りである*2

  • 消費者庁内閣府における子どもの事故情報取り扱いの制度比較
  • 性的マイノリティを巡る法制度、とりわけ同性婚を巡る現行法制度の問題点と解決策
  • 自治体の文化芸術政策とその評価方法について、音楽振興事例の比較
  • 出身県における交通弱者問題の現状と解決策の検討
  • 雇用政策における外国人、とくに介護分野の外国人雇用

既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、指導教員である私からみると、自身の狭い意味での専門である行政訴訟には一切関係がない*3。それもそのはず、このゼミでは、取り組む課題選択も、その課題に対してどのようにアプローチするのかも、学生自身に選択してもらったから*4である。そのため、教員側としては、今まで学んだ知識や見識を総動員して、学生が深く検討したいものに寄り添って、自分自身も勉強しながら、論文を指導することになった。
さらにいえば、一部の論考については、行政法よりも他の法分野や学問分野の比重が高いのではないか、と思われるものがあることにも気がつかれただろうか。たとえば、「同性婚」について扱った論文は、婚姻制度そのものだけではなく、相続や養子縁組等も問題となり、民法家族法)の記述が多いものである。そのため、家族法の教科書等も引っ張り出しながら指導を行った*5。また、「交通弱者」について扱った論文は、その「交通弱者」(日常生活における移動に困難を感じるほど交通アクセスが不十分な人々)を浮き上がらせるために、各種の統計資料や、「交通経済学」という分野において用いられる議論を使っている*6。もちろん、論文を執筆するのは学生たち本人ではあるものの、教員としては、どのような資料があるのか、彼らが選んできた資料に見落としや偏りが無いかをチェックする必要もある。また、物理的なアクセスが難しいのなら、場合によっては資料提供を手伝う必要もあった。実際、彼ら・彼女らの関心に応じて、かなり多数の書籍や論文を読んだし、インターネット上で調べることが出来る報告書にもたくさん目を通すことになった。
なぜこんなことになったのだろうか。その理由は二つある。一つは「専門性は相対的に決まる」ということ、もう一つは「卒業論文のゴール設定が『提言』にまで行き着くことだったから」である。

専門性は相対的

この横田ゼミ第一期生がゼミ選択において考えていたのは、「どんな専門性を持つ教員のもとで卒論を書きたいか」ということであった。つまり、学生はゼミの説明会等を聞いているときに、教員間の専門性を比較し、自分の興味がある分野との関係を探っていた。彼ら・彼女らが興味を持った教員の「専門性」イメージについては、以下の図で表すことができる*7
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これを、第11回【前編】で示した図と比較してみよう。
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どちらも、行には学問の方法論が、列にはその対象分野が並んでいる。そう、総合政策学科の学生からみれば、横田は「法学」の教員であり、公共政策(その実現主体としてはまずは行政が想定される)の観点からすれば、政策と法が交わるところにはどこでも対応できるという期待があるわけである。
着任した当初の自己認識では、私は下方の図(法学分野内での分類)の「行政法」の教員だと考えていた。そして、「これから環境法も担当することになるし、もっと環境法全体を勉強し、さらに研究しなければ」と、環境法政策学会にも入会した。専門としては訴訟なので、民事訴訟法の基礎くらいは講義で触れることにしなければ、という思いもあった。つまり、下図でいえば、「行政法」の行と「環境法」の列、そして一部「民事訴訟法」や「憲法」の行にはみ出すような内容を教えるものだと思っていた。しかし、総合政策学科生を指導するには、それだけでは足りなかった。上述のように、民法家族法の知識が必要になったものもあれば、消費者法が「事故」についてどのように取り扱っているのかや、社会保障・労働分野において外国人がどのように取り扱われているのかについて、一般的な知見が前提となっていたものもあったため、社会と法のあり方について知っていることを洗いざらい考え直さざるを得ない状況になった。

「普通の法学学習」だけでは足りない視点

もう一つの理由は、卒業論文のゴールを以下のように設定していたからである。

自ら社会問題を見つけ、分析し、できれば解決に向けた提言を行うこと。提言は完成されていなくてもよいが、「提言の方向性」までは示さなければならない。単なる「調べましたレポート」ではなく、「これからどうしたらよいのか」を一言でも述べられるように、行政と法とが交わる課題を見つけて欲しい。

何らかの提言までたどり着く。これは、総合政策学科の他の教員やそのゼミ生から、卒業論文についてあれこれ聞いた末にたどり着いた、私なりの「総合政策学科」行政法ゼミの目標である。
今、法学部に通っている皆さんからみて、この目標設定はどのように見えるだろうか。もし、あなたが12年前の私と同じ・・・法学部生だとしたら、おそらくこんな風に思うだろう。
「何らかの提言につなげることなんて、法学の議論からできるの?」
これは指導教員の私としても、また法学を中心に学習してきた総合政策学科のゼミ生にとっても、難しいことがらであった。2つの異なった観点から、それを説明してみよう。

1)今ある規範や法制度の中で議論するか/これから新しい規範や法制度を作るのか

上で見た卒論のテーマは、いずれも「現在問題があると思われていること」についてである。ゼミ生の問題意識は納得できるものであり、「解決のために何とかしなければならない」ということは間違いなさそうである。しかし、いままで法学の講義やゼミで教わっていたのは「今ある法制度ではどう考えるべきか」という議論が中心だった。それは、法解釈論と呼ばれる仕組みからの議論である。また、法が出てくる局面も、争いが起こった後、「どう紛争を解決すべきか」という紛争解決規範としての法のあり方について学ぶことが多かった。
しかし、法学にはもう一つの顔がある。それは、これからどのように新しい規範を生み出していくのか、今ある法制度を変えていくにはどうしたらよいのか、という考え方である。それは、立法論と呼ばれている。ところが、法学部の講義において、立法論が直接の対象となる講義(例えば、「立法学」、「法政策学」、「政策法務*8など)が行われていることは少ない。千葉大学法経学部・法政経学部においても、「法案作成」に関する内容は、公共政策の観点から、「政策・合意形成入門」というタイトルの講義にて行われているにとどまる。これは、「法学」の講義としては認識されていない*9
実際に卒論を書き始めてみると、今ある法制度を前提として、それをどう解釈していくのかという法解釈学の考え方だけでは、今ある社会問題に対する提言にはなかなかつながらない。第9回【後編補足】において、「卒論提出50時間前なのに終章が書けない」というギリギリの状況をお伝えしたところ、「そんなむちゃくちゃなことってあるんですか」という趣旨の感想をいただいたが、それはゼミ生が怠惰だったということでは決してない。それは、法解釈の世界から立法論の世界に一歩踏み出すために、視点変更をどのように行えばよいのかが分からなかったからなのである。

2)現状分析のために異なる専門知を読み解く必要性

もうひとつは、異なる専門知から書かれた文献をどのように読み、取り扱うかということであった。現実社会の問題点を分析するには、法学だけでは足りず、経済学や社会学、政治学の知見もフル活用しなければ、「何が問題となっているのか」を述べることができないからである。
例えば、上述した「交通弱者」についての議論では、生活圏を自由に移動することが難しい「交通弱者」の存在を明らかにするには、その地域での交通網の利用状況や、公共交通システムのあり方について検討することが不可欠となる。そのためには、統計を用いて比較検討したり、需要と供給を数値として示すという作業が不可欠なものとなる。また、調査報告書がどのような形でどこに存在しているのか、それは信用に足るものなのか、自分の議論との関係で用いてよい資料なのかどうかなども判断しなければならない。
そのためには、仮に自分自身はその調査を実地で行わないとしても、社会調査のやり方や分析枠組みの提示など、経済学や社会学で用いられている手法についても、その基本的枠組みについては知っておかなければならない。

「立法論」の難しさ

この2つの難しさは、相互に関連している。法解釈学の世界から、立法論の世界に足を踏み入れると、「なぜ変えるのか」という問いに対して真剣に答えなければならなくなる。しかし、そのときには法解釈学だけでは足りず、他の社会科学の知見も活用して、「なぜ現状ではダメなのか」について説明しなければならない、という関係にあるからである。
皆さんは、法学の講義で法解釈論を学ぶとき、教科書等で「法の趣旨からすれば・・・」という言葉遣いを目にすることがあるだろう。また、○○法が平成○年改正でこんな風に変わった、という説明を目にしたこともあると思う。今までは、それらの記述について「へえ、そうなんだー」と読んでいたかもしれないが、その過程にはどんなことがあったのかを想像してみてほしい。
新たな法令(法律・条例だけでなく、その下位にある命令(政令・内閣府令・省令等)も含む)を作るときや改正するときには、立案過程や立法過程において「なぜ今までの制度ではダメなのか」を説明しなければならない。つまり、「制度設計」の観点から、あるべき姿を想定し、それに至るにはどのように法令を仕組めばよいのだろうかということを考えなければならない。
また、作った法令がちゃんと守られるか(遵守することが現実としてできるか)、守らせることができるか(執行を確保できるか)も視野にいれなければならない。法は、ただ作るだけでは意味がなく、みんなが守ろうとする、守ることができるからこそ、社会制度を実現する道具として機能するからである*10
読者の中には、「そんなの当たり前じゃないか」と思う方もいるかもしれない。しかし、法学を学んでしばらく経って、「法学=法解釈論」のイメージが染みついてくると、「政策実現の手段として法を作る」という視点が抜け落ちてしまいがちになる。紛争を丁寧に解決するためにはどうすればよいのか、ということを考え続けていると、どうしてこういう制度になっているのか、という「今あるルール」についての説明やそれを前提とした利害調整についてはうまくできるようになる。しかし、「これからどうすればいいだろうか」という視点で考えることをついおろそかにしてしまう。「法学=法解釈論」という考え方がいつの間にか頭に染みついてしまって、変革が必要だというときにまで「今までこう決まっていますから」とか、「何か先例はないだろうか」と考えてしまいがちになる。
もっとも、今ある仕組みがどうしてそうなっているのか、この仕組みでは本当に解決出来ないのだろうか、という点をきちんと議論しておかないまま、「制度が悪いんだ、こう変えるべきなのだ」という議論ばかり振り回すのもまた、大変危険である。勘違いしてほしくないのは、今までの法解釈学的な考え方をまったく捨てて、白地で考えろ、ということを言いたいのではないということである。現行法制度では上手くいかないことがきちんと突き詰めて限界を明らかにしてから、なぜ新規の立法や制度変更によらなければそれが解決できないのかを考えるという手順を踏むことが大事である。ある事例からみれば一見不合理に見える規制も、もともとはそれなりの理由があって構築されているということが多い。ならば、今までの考え方ではどうしてダメなのか、解釈の限界を示してからでなければ、かえって「新立法」や「変更」が、変更前は元々対応できていた弊害をむしろ再発させてしまうことだってありうるからである。

同じ問題領域について他の学問分野にも橋を架ける

私自身、この「立法論」の難しさについては、明快な答えを有していない。そこで、今回の記事においては、ゼミ生に指導する上で常に意識していたことを、教員目線からも説明することにしたい。それは、特定の問題領域について、法学の知見を1つの軸としながら、他の社会科学ではどのように捉えられているのかを参照しつつ、議論をまとめてほしいということである。ある社会問題に対してどのようなアプローチがあるのかを、まずは法学分野全体を見据えながら探すこと。そして、それに加えて、絞りに絞ったキーワードに沿って、手に入れることができるものであれば全て集め、学問分野を飛び越える勇気を持って文献にあたることである。もちろん、専攻分野から外れる文献等について、どこまでの知見を正確に反映できるかはなかなか難しい。しかし、最初から「これは読めないや・・・」と思って諦めるのではなく、まずは自分が取り上げた社会問題について書かれてみるものを片っ端から集めてみる、ということである。
興味がある事柄については、学問分野という「島」に橋を架けて、他の「島」まで探し歩いてみる。そのことによって、ゼミ生は何を得られただろうか。・・・実のところ、これについても明快な答えが出ていない(本記事を書ききるまでに何か出てこないか、と考え直してみたが、やはり、明快に述べることはどうもできそうにない)。私が卒論指導において伝えたかったことが本当に意味のあることなのかどうか、ゼミ生の智慧として生きているのかどうかは、おそらくは、彼女たちの10年後から12年後になって、ようやくわかる事柄なのかもしれない。
ただ、卒論指導を通して成長したゼミ生の姿を見る限り、卒論を書くために取り組んだことは、ゼミ生にとって「今まで習ってきた法解釈学を、社会を変えるためにはどう考えたらいいのかと考えるときに、問題と結びつけるための糸口」にはなっていると思う。上で述べたことからすれば、法解釈学を立法論にまでつなげるためには、他の社会科学分野(例えば経済学)の知見を用いた現状分析が必要であり、それがより良い政策実現(これは政策学が目指すものである)のために必要な「道具としての法」を生み出していくために必要なことなのだ、ということは言える。ただ、その具体的なあり方については、自ら考えて「卒業論文」を書いてみるなりして、目的意識をもって資料を集め、自分の言葉にしていくことを経ないと、なかなか伝えきれないようである。

「分野を横断する」ブックガイド

最後に、「社会科学分野を横断する」ことについて、実際に試してみたい学生のために、参考となりそうな本を数点紹介しよう。

1)神戸大学法学部・経済学部の連携講義を追体験する『エコノリーガル・スタディーズのすすめ』

柳川隆・高橋裕・大内伸哉(編)『エコノリーガル・スタディーズのすすめ―社会を見通す法学と経済学の複眼思考』(有斐閣・2014年)は、同じ社会問題について、法学の先生と経済学の先生がそれぞれ解説するという、神戸大学法学部・経済学部連携講義を再現したもので、同じ事柄を経済学と法学の二つの視点でみる「複眼思考」を薦める本である。同書では、法学の二つの側面(法解釈学と立法学)があることを意識しつつも、法解釈学のロジックが経済学の分析でも正当化しうるものなのかどうか、経済学で得られた知見をうまく反映させた法制度設計(立法論)はあり得るかについて、個別のテーマごとにかなり詳しく紹介されている。前回紹介した『対話で学ぶ行政法』とは異なり、対談形式ではなく、講義形式の中に「複眼思考」が織り込まれている点も興味深い。なお、取り上げられているテーマおよび執筆担当者は次の通りである(出版元ウェブサイトから引用)。法学研究者から言えば、「付録 経済学の基礎知識」が大変有り難い内容になっていることも付言しておく。

序 章 法学と経済学の複眼思考(高橋裕・柳川隆)
第1章 「もの」を所有する権利とは:知的財産法(島並良・中村健太)
第2章 会社関係者間の利害を調整するルールとは:会社法(榊素寛・飯田秀総)
第3章 競争を公正に行うためのルールとは:独占禁止法(泉水文雄・柳川隆)
第4章 労働市場の望ましいルールとは:労働法大内伸哉・勇上和史)
第5章 セーフティー・ネットの公平と効率とは:社会保障法(関根由紀・小塩隆士)
第6章 「契約を守る」とは:契約法(齋藤彰・田中洋・座主祥伸)
第7章 損害を賠償することの意味とは:不法行為法(古谷貴之・宮澤信二郎
第8章 環境を守るためのルールとは:環境法(角松生史・島村健・竹内憲司)
付 録 経済学の基礎知識(中西訓嗣)

2)労働について、法・経済・政策を考える『法と経済で読みとく 雇用の世界 新版』

『エコノリーガル・スタディーズのすすめ』第4章(労働法)が気になった方は、ぜひ、大内伸哉・川口大司『法と経済で読み解く雇用の世界―これからの雇用政策を考える[新版]』(有斐閣・2014年)を合わせて読むことを薦めたい。こちらは一冊で、労働問題について、法と経済両面から考察し、そしてあるべき労働政策はどのようなものか、について考えることを意図して編まれた本である。千葉大学法経学部・法政経学部では、労働経済学の大石亜希子先生のゼミと労働法の皆川宏之先生のゼミでは一部「合同ゼミ」として、本書を教材にしたゼミを行っているとのことである。
既に労働法を学んだことがある私から見ても、労働経済学ではどのように考えるのか、それは労働政策全体との関係ではどのように位置づけられるのかについて新たな視点が得られた。

3)社会における情報のあり方を分野横断的に概観する『よくわかる社会情報学』

西垣通・伊藤守(編著)『よくわかる社会情報学』(ミネルヴァ書房・2015年)は、「社会情報学」という学問について、その「学問」としての成立過程、基礎概念から、それが他の社会科学分野との関係でどのように現れているのかを、分野横断的に示した本である。情報とは何か、社会情報学ではどのように研究するのか、実際に現れている現象はどんなものがあるのか、そして「法・政策と情報」はどのような関係にあるのか。一つ一つの項目は、B5で2頁(つまり見開きでB4一枚分)でしめされている(これは「やわらかアカデミズム<わかる>シリーズ」の特徴でもある)。だからといって簡単なことだけしか書いていないのかといえば、そうではない。本文では極めて平易に、しかし注においてはその分野の最新の知見にまでアクセスできるよう、趣向が凝らされている。前回触れた「情報法」に興味を持った方は、本書第Ⅹ章「法・政策と情報」の各項目は必見であろう。そこを起点として、他の章で取り上げられている項目との関連を自分で読み解いてみるのも面白いだろう。

4)政策を専門とする人にもとっつきやすい『環境法(有斐閣ストゥディア)』

北村喜宣『環境法(有斐閣ストゥディア)』(有斐閣・2015年)は、「法学をまだ勉強していない、高校を卒業したばかりの大学1年生に、環境法を教えるにはどうしたらよいのか」という観点から書かれた環境法の入門書である。実は、本書については、著者本人と私が対談を行っている(北村喜宣・横田明美「【対談】自著を語らせる―― 環境法教師からみたストゥディア『環境法』」(書斎の窓2016年1月号(643号)4-10頁と同内容が全文公開されている)。その対談中でも触れた点であるが、本書の特徴の1つは「法解釈学」と「法政策学」を架橋することである。本書5頁〜6頁では、環境法が(他の法学科目と比べ)きわめて問題解決指向的であることを指摘している。その意図は、「環境保護にとってちょっと困った行動をしている人の意思決定を変える。そのための仕組みを、環境法は規定します。」(同書・6頁)ということばからもうかがえるだろう。
各章の構成も、ただ現状の法規制を述べるのではなく、高校までの知識を入り口として、法規制の経緯と発展を、入門書とは思えないほど踏み込んで説明している。本書46頁には、ばい煙規制法案をめぐる厚生省(当時)と通産省(当時)の駆け引きについて、立案担当者のコメントも交えながら、かなり踏み込んで批判的に解説をしているので、ぜひご確認いただきたい。「今ある法制度を解釈論を尽くした上で疑う」というのはどういうことなのかが、入門者にもわかるかたちで具体的に示されていることに、きっと驚くだろう。

もっと読んでみたいあなたに

かつて、「法学を専門としていない学生が法律案・条例案を提言するためのブックリストを作ってください」と頼まれたことがあり、「横田明美研究室」ブログ内で執筆した記事がある。
akmykt.net
既に「タイムリープカフェ」内で紹介した本も含まれているが、ぜひ参考にしていただきたい。

次回予告

とうとう本連載も締めくくり。まだ語っていないことは、<「私がこれを学生の皆さんに語るにはまだ早すぎる」ようにも思うけれども、最後に伝えたいこととの関係では語らざるを得ないこと>。それは、法学研究者を志して法科大学院を修了して、その後何をしていたのか、ということである。第1回で語ったことも思い出しつつ、今、法学を学ぶ人に伝えたいことを精一杯書く予定なので、ぜひとも最後までおつきあいいただきたい。

第11回【後編】のまとめ

  1. 知らず知らずのうちに「今ある法制度」を前提としていないか、疑ってみよう
  2. 「なぜ変えるのか」と「今までの制度は何を守っていたのか」を両方語れるように頑張ろう
  3. 分野を横断する必要性に迫られるような課題を探して、自主的に取り組んでみよう

*1:現役の学生だけでなく、社会科学全般の大学教員の方々も多く見ていただいているようで、大変有難いことである。

*2:学生にはブログ掲載の許可をいただいた。記して感謝申し上げる。本連載および「ぱうぜセンセのコメントボックス」は、ゼミ生を中心とした、横田研究室に出入りしている学生の生の声と協力が無ければ実現しえないものである。今回はその最たるものであろう。

*3:私の狭義の専門は「申請型義務付け訴訟」(行政事件訴訟法3条6項2号・36条の3)を中心とした議論であり、これまで書いた論考も、多くは行政訴訟に関連する事柄である。

*4:なお、これらのテーマはゼミ生個人の進路にも深く関係している(この5人はいずれも国家公務員・地方公務員を志望し、第一志望内定を獲得した)。途中で論題を変更したりしつつ、将来の進路に関連深い内容に改めている。

*5:なお、当該学生は講義としての家族法を未履修であった。総合政策学科の場合、法学科目全てを履修しているとは限らないため、しばしばこのような事態が生じる。そのため、学生本人は相当な分量の自学を行うことになった。

*6:ちなみに、私がこの議論にどうにかついていけたのは、判例評釈や博士論文においてタクシーに関する許認可が問題となった事例を扱う際に、交通経済学の議論についても一通り目を通していたからである。

*7:横田明美「法学部って何だっけ?-法政経学部の教員から」法学セミナー725号(2015年)39-42頁、とりわけ41頁掲載の図を再掲した。法学セミナーでの記事はちょうど一年前に執筆したものであるが、事柄の性質上、今回の記事と内容面で一部重なり合っていることをご了解いただきたい。

*8:この3つの関係については、本稿では詳細を述べることはしない。気になる方は、それらをタイトルに含む本を手にとっていただきたい。一例をあげると、大村政輔・鎌田薫(編)『立法学講義【補遺】』(商事法務・2011年)第一章第三節「立法学」と「政策法務」、「法政策学」〔加藤幸嗣執筆〕とそこで紹介されている文献、特に、平井宜雄『法政策学 法制度設計の理論と技法[第2版]』(有斐閣・1995年)等を参照のこと。

*9:法経学部においては総合政策学科の、法政経学部においては政治学・政策学コースの科目だという認識がされている。なお、担当しているのは環境経済学環境政策論が専門で、環境庁(当時)で法案策定に関与した経験がある、倉阪秀史先生である。本講義の教科書は、倉阪秀史『政策・合意形成入門』(勁草書房・2012年)であり、同書では官僚として関与した経験を踏まえた「法案の作り方」だけでなく、市民参加の実践方法についても解説されている。もっとも上述の通り、倉阪先生ご自身の研究領域は環境経済学環境政策学であり、学術的な意味では法学との関連は薄い。そのため、本書も法令用語の取扱いや法学的な位置づけについては基本的なことは触れてあるもののあまり多くの頁を割いておらず、参考文献に委ねていることに注意してほしい。

*10:政策研究の分野において、行政法学の研究者による「政策実施」を論じた本として、大橋洋一(編著)『政策実施(BASIC公共政策学6)』(ミネルヴァ書房・2010年)がある。とくに第1章「政策実施総論」〔大橋洋一執筆〕は、いままで法律学と政策論との関係がどうであったのか、同書の目論見はどんなところにあるのかを説明している(特に13-16頁において、「法律解釈学、立法学と政策実施論」という項目がある)。本文中で述べた考え方は、同書の問題意識を踏まえて、私なりに平易な言葉で書こうとしたものである。

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